修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

霊能力は、呪いのようなもの・・・

私の所に修行に来る人の中で
『霊能者になりたい!』そう思っている人がたまにいます。

『霊能者=神々に選ばれし者』
という憧れからそう思うのでしょう。

まぁ~どちらかと言えば
そう思っている霊能者と呼ばれる人は多くいますし
逆に、私のような考え方の人は少ないでしょう。

神々に選ばれし者が、霊感商法で逮捕されたり
カルト集団として、警察に目をつけられたりする
オーム真理教のように凶悪な犯罪を犯したりもするわけで
私としては、スピリチュアル的な事に重きを置く生活より
現実をしっかりと自分の足で生きる方が
幸せへの近道だと思うわけです。

しかしながら、身に染み付いている
極度の霊感というやつは、無くそうにも無くせないわけで
現実社会とのギャップを埋めるのは、なかなか難しい・・・

一見、便利に思われるこの霊能という感覚は
多くを惑わせ、真実を見えなくするのです。



たかだか、他人の嘘が良くわかる・・と言った感覚だけでも
他人から遠ざけられたりする分けです。
私など何度、気持ち悪いと言われたことか・・

人間社会は、嘘や方便で成り立っており
誰しも、本心を隠して、嘘や誤魔化しの中で過ごしています。
それが丸裸にされれば、やはり気持ちが悪いものです。

また、往々にして自分の事しか考えないが為に
戒めとして霊感なるものが身に付く事が多いので
他人の嘘や方便がゆるせなかったりするわけです。

『なんだこいつ!嘘ばっかりじゃないか!』
何て思ったりするわけですが
自分中心にしか、物事を捉える事ができないので
自分も嘘や方便を使っている事に全く気付けないのです。

嘘も知らなきゃいいのですが
知ってしまうが為に、ゆるせなくなってしまう。
自分に対しての嘘を飲み込む行為も疲れます。
気づけば、自分の周りが
ゆるせない事だらけになっているわけです。


知人が近々死ぬ事が解ったりするのも
最悪の気持ちになります。
伝える事など出来るわけもないし
何かの間違いだと自分に言い聞かせても
そんな事が繰り返されれば、そう思えるわけもないのです。
何とかしたいと、そんな気持ちになるのですが
結局、何も出来ないわけで・・・
自分の無力さに苦しんだりするのです。


これらは、自分が目前で起きる現実を受け入れられないという
究極の戒めだと、私はそう思っています。

昔の私は、こんな感覚を無くしたいと思い
激しく修行しましたが、身体に染み付いたこの感覚は
無くなるわけもないわけです。

霊能力は、呪いのようなものだと
いつも、そう思っていました。


そして、自分はどうしてこんな呪いを
かけられなければならないのだろう?
と、そう考えるようになり
自分自身の言動を振り返るようになりました。


自分勝手に生きて行けば
誰でも身に付ける事が出来るのが霊能力である。

即ち、他人を理解する心
他人を思いやる心が欠如している人に身に付く感覚である。
と、自分自身をそう戒める事で
多くを学ぶことが出来ました。


自分勝手に生きて行けば
否定批判する出来事が増えて行きます。

今では、笑い話なのですが
人を苦しめる『悪霊』とよく戦いました。
除霊行為も、数え切れないくらい行い
『悪』を生み出しているのは自分だと気づけなかったのです。

除霊行為がいけないわけではなく
初めから、人を苦しめいる存在は『悪』として
その事象を深く理解する事をしなかったのです。

ようするに自分が常に正義であり
自分の意にそぐわない事象は『悪』だったという事です。

当然のように周りには
ゆるせない事ばかりでしたね~w



従って霊能力は『ゆるす心』を芽生えさせる為の
呪いではないのだろうか?

次第にそう思うようになり
今では、それが私の中で確信となっています。


なぜならば『ゆるす心』が増えて行くにつれて
自分に染み付いた極度の霊感など気にならなくなったからです。


自分自身を認めてもらうより
他人を認めてあげられる自分がある事に幸せを感じるし
他人から愛されるよりも他人を深く愛してあげられる
自分の感情に幸せを感じるわけです。

この感覚が密教で学んだ断捨離ってやつなんでしょうかね?


我々のご先祖様たちは、やはり偉大ですね。
私は、どうやら貰うばかりの生き方をしてきたようです・・

私たちは先代からの想いを繋いで過ごしているのなら
私も後世に、何か残してあげたいものです。