修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

まずは「悪」を受け入れるべし!すれば幸せになれるのが、人間という生き物である。

私は、自分自身の体質を憎み恨み
どうして、自分ばかりが・・
と、そう思っていた頃がありました。

ただ、なぜだか
心の中で全ての人は平等である
平等であるはずだ!と、そう思っていたのです。

なので、この世の理がどうしても知りたかった。

そして、様々な宗教を学びましたが
結局、誰も教えてはくれなかった。

仕方なく、一人で修行しながら
注意深く大自然と向き合う道を選んだわけです。


皮肉なもので、あれだけ憎み恨んできた
体質のおかげで、多くを学ぶ事が出来しました。

様々なエネルギーと出来事の法則を
知れば知る程、なるほどなぁ~
と思う事が日に日に増えて行くわけです。



例えば
「人の心は苦悩の中でしか成長できない。」
この法則一つで
概ね社会の構造が理解できます。


よくよく考えてみて下さい。
我々の社会では、苦悩=悪で「悪」は、排除対象です。

「悪」のない社会が良い社会であり
人々は、「悪」のない社会を目指し
それは、当たり前の事で常識です。

なぜならば、誰しも苦悩は嫌だからです。
従って、苦悩の反対に位置する「快楽」を求めるのが
我々の社会の根本理念という事になります。


しかし、大自然は、我々の心を成長させようと
出来事を引き起こしており
そして、人は苦悩の中でしか成長できない。

そんな世界の中で
私たちは、「悪」のない社会を求めているわけです。

大自然は、我々に心の成長を促し
そして、「苦悩」という「悪」がなければ
心が成長できない世界の中で、私たちは過ごしている。
・・にも関わらず、私たちは
「苦悩」のない世界を創り上げようとしている。


私は、この事実を知った時
山の中で一人で大爆笑していた事を記憶しています。w
だって、世界中が初めから無理なモノを求めて
日々生活しているのが、人間なんです。

そして、誰しもそれを受け止める事が出来ない。
なぜならば、辛く苦しいのは嫌だから・・
辛く苦しいと思うのは
自分がそう思う事を選択しているだけなのに・・

人間とは、なんと滑稽な生き物なんだ!とそう思ったのですが
よくよく考えて見ると、そんな仕組みの世界で生活しているおかげで
喜怒哀楽を交えた人生が楽しめるのでは?と、そう思うに至りました。


何が、言いたいかと申しますと
私たちは、大自然の法則に逆らって過ごすように
この世に産み落とされているという事です。

この大前提を知った上で、毎日を過ごすと
人が生み出す「悪」の正体が良く見えてきます。
「悪」とは、人の「欲」が生み出しており
「悪」を受け入れる事が出来ないのも
自分自身の「欲」が原因だという事です。
この事実を理解できると
なかなか快適な生活を送る事ができるようになりますし
人生を楽しむ事が出来るようになるのです。








私は、この世の理を求めて長年過ごしているのですが
私が知った、この手の大自然の法則は、まだまだ沢山あります。w

例えば
「人は争う事で、利他的な思考を生み出すきっかけを創る。」

男同士殴り合いのケンカをして
最終的に意気投合する漫画やドラマを見かけた事があると思いますが
私もガキの頃、体験しております。

ケンカする時は、感情的になり後先考えず
自分の価値観を相手に押し付け合って始まるものですが
殴り合えば痛いですし、疲れます。w
もう、嫌だと思います。
そして、なんだかお互い自分のやっている事がバカバカしくなるのです。
次第に怒っていた感情が治まり、笑えてくる。
そして、仲良くなる。

この時、起きている現象は
自分の価値観を相手に押し付ける事で殴られるという痛みを得る事になり
自分の価値観を相手に押し付けた代償として痛みを得るのです。
代償を払う事で、自分の価値観を相手に押し付けた罰が終わり
お互いに相手の価値観を受け入れるスペースが出来ます。
そして、お互いに相手の価値観を受け入れる事が出来るようになる。
(殴り合う事が条件ですが・・)

要するに相手を認める事ができるのです。
お互いに相手を認める事が出来れば、仲良くなりますよね?
ある程度の相手の主張を受け入れる事ができるという事は
利他的な心が育まれたという事です。

誰しも、争いで嫌な思いをする事は拒絶したいでしょう。
しかし、人それぞれ価値観が違う為、争う事は自然な事です。

「争いは避けるべきだ」
「他人を傷つけてはいけない」
と、いくら言った所で、心の成長がなければ
出来ない事なのです。
なぜならば、心を成長させる為に人と人とは争うからです。


ゲームだって敵がいないとつまらない。
映画だって「悪」がいるから面白い。
差別がダメだ!平等であるべきだ!と言いながら
スポーツで順位をつけて競わせる。

争いは、人間の本能が生み出しているのです。
そして、争う事で人は成長できるのです。

競うと争うは違うという人も居るでしょうが
エネルギーの質は全く同じで
違いは、自分が傷つく可能性があるかないか・・
と言った所でしょうか?





私は、色々な宗教を学ばせて頂きましたが、
殆どの宗教が、博愛を強要します。
しかし、私に博愛を強要する方々から
「愛」も「慈悲」も感じ取る事が出来ず
感じ取る事ができるのは「欲」でした。w

たまたまか?と思い
色々な宗教に首を突っ込みましたが皆同じです。
私自身が未熟なせいだと
そう思うようにしていましたが
慈愛を強要しているにも関わらず
他人を責め、悪口を言い
自分の思い通りにならないと怒る。


聖職者の言葉を聞く度に
私の中に住まう連中があざ笑うのです。

結果として、こんな場所で、一体何を学べるのか?
と、そう思うようになりました。

結局、一人で修行するなり
多くを学ぶ事ができました・・
人は、人生の中で愛と慈悲を学ぶ為
簡単に手に入れられないのが愛と慈悲なんだ・・と。

どんな人も、利己的な思考を植え付けられて生まれてくる為
真逆の慈愛の精神を強要すれば
人と言う生き物を否定する事になり
人の心は壊されて行く・・
そもそも、慈愛とは
利己的な心をゆるす事でしょうしね。
博愛を強要している以上
愛も慈悲もないという事になります。

なので、博愛主義を強く語る人や集団はを
私は、気持ち悪いと感じてしまうのでしょう。
愛と慈悲を簡単に手に入れる事が出来れば
人生なんて必要ありませんしね~

心が傷つき、辛く苦しい体験から
慈愛の心を学ぶ事が出来るのが大自然の法則であれば
人を傷つけ苦しめる事も、「愛」だという事になります。

多くの宗教を学ばせて頂いた中で
日本神道が素晴らしい!と、そう思ったのは
何一つ、強要しない所です。


仏教では、説法、説教
キリスト教では、布教活動など
愛と慈悲を説く事をして行きますが
日本神道は、何一つそんな事はしないのです。

以前、7年に一度の神社の大祭が
感謝を捧げる神事ではなく
氏子のイベントになっているのを見て
私は、宮司に「これでいいの?」と伺いました。
すると宮司は「良いとは思いませんが
これも大神様がしている事なので
我々神職に問題があるのでしょう。」
と、そんな事をおっしゃっていました。

あくまでも目前の現実から学べ!というスタイルで
どんな出来事も受け入れるのが、日本神道なのです。


神道では、自然現象そのものが神なので
己を成長させる学びは
毎日の生活の中で、沢山あります。
民草に説法など必要ないのです。

神々に使える神職は、己を律し
民の手本となる生活をする。
民草は、その態度を見て学べばよいわけです。

「全てに感謝し、世の為、人の為に尽くす。」
たった、これだけの実践です。
感謝せず、利己的な生活をしようが自由です。
だって、その結果が目前の現実となっているだけですからね。
出来ないと思うなら、やらなければいい。
したくないと思うのなら、やらなければいい。
その結果が、目前の現実となるだけです。
自身の言動の結果が、目の前にあるのだから
目前の現実を変えたいのであれば
自分が変わればいいだけなのです。

自分以外を批判し、責めても何も変わらない。
「悪」を排除するのではなく
受け入れるのが、神道の教えなのです。


難しい説法など必要ないのが日本神道です。
神棚に祀るご神体は、「鏡」であり
己を見よ!という事です。
「悪」など、何処にも存在していないという事です。

観音様や阿弥陀様、マリヤ様やキリスト様などの
ご神体など、必要なく
神々に縋った所で、それは逃げ場所に過ぎず
己をしっかり見つめて、ひたすら磨け!という教えです。

いや~素晴らしいですね。
私が色々な宗教を彷徨っていた頃の悩みが
神道との出会いで、全て吹き飛んで消えてくれました。


神道には、「悪」を受け入れろなんて教義はありません。
私が、勝手にそう言っているだけです。w
神道には、「善」も「悪」も存在しませんからね。
全てを受け入れる事が教義なので
解りやすく「悪を受け入れるべし!」と
しているだけです。

神道の教義通り、世の為、人の為に尽くそうとすると
今まで、自分が「善」と思っていた事が
そうではない事に気付けます。
自分の浅はかさに気付ける出来事が起きるんです。
逆を言えば、「悪」だと思っていた事が
「悪」でなくなるのです。

これは、世の為人の為に尽くす事を
ただひたすらやり続けないと
体験できない事なのかもしれません。

私は色々な宗教を学ばせて頂きましたが
結局は、経験の中で学ばなければ
言動が伴わない事を知りました。
いくらありがたい言葉を頂いても
自身の煩悩が邪魔をするのです。w

しかし、日本神道
「すべてに感謝し、世のため人の為に尽くせ」という教えは
本当に理にかなっているなぁ~なんて思いました。

だって、自分が生み出す「悪」が無くなれば
どんな人も幸せになれるんですから。

そして、その為には世の為人の為に尽くさなければならない。
そうすれば、身をもって知る事が出来る。
逆を言えば、その行動をしなければ
永遠に幸せになれないという事です。

これは、このブログに何度も記している事ですが
中々理解出来ない事だと思っています。

体験しないと、解らないんですよね~
なので、ボランティアしろ!と、言い続けているわけです。w



実際、我々の社会で「悪」とするモノは
我々の人生で必要不可欠なものです。
悪いとされる事をする人は、なぜ?それをするのか?
どう言った経緯で、そんな事をするのか?
それを無くす為には、自分に何が出来るのか?と
考え、行動に移すと
必ず、自分の至らなさに気づく事になるのが
大自然の法則なのです。

なので、ただ「悪」を排除するのは、もったいない。w
何も考えずただ排除すれば
一回り大きくなった「悪」が
また、やってくるだけですしね~

なので、一旦受け入れて
しっかり味わうといいんです。w
それが、出来ないと幸せが逃げてしまいます。

ちょうど今、社会では、眼に見える「悪」が充満しているのを
感じている人が、たくさんいると思います。
その「悪」をしっかり味わって、楽しんでみて下さい。

自分に足りない何かが、きっと見つかると思います~