修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

自分の立ち位置を知っておくべきである

ブレる・・
ダブスタ・・
など、自分の言っている事に
辻褄が合わなくなってしまうのは
誰にでもありうる事で
逆に、言動に一貫性のある人の方が
少ないものでしょう。


理由は、簡単で
自分の人生に信念をもって過ごしている人は
とても少なく
我々は常に我欲に惑わされているからです。




毎日を流されて過ごしていると
己の快楽を求め続けてしまうのが
人間の本質である為
常に、自己の快楽を満たされるか?否か?
で、物事を判断してしまう。

その結果、物事の道理など
無意識に完全無視してしまうわけです。
そして、無視している事に
自分自身も気付いていない。

私たちは社会のルールに縛られて
過ごしているので、思考の中で
自分の「正しさ」を探してしまい
「正しさ優先」で判断してしまうのです。

「正しさ」は「善」であり
従うべきだ!と・・

そもそも、その「正しさ」が
自分にとって都合の良い物である事が
思考から抜け落ちているんです。


なので私は「論破」という言葉を
口にして勝ち誇っている人は
思考が偏っていると
思ってしまうのですが
それを称賛する人が多いという事は
その人たちからすれば
私の思考が偏っているのでしょうね。w




以前、脳神経外科の医学博士の先生から
人間の脳には「自分」という
位置づけをする機能が備わっている・・
という話を聞いた事があります。

当たり前な事なのですが
人は「自分」視点で常に物事を考えて
生活しているわけです。

例えば、コップを持とうとした時に
自分の位置が分からなければ
身体を正確に動かして
コップを持つ事が出来ない。

従って何をするにも
自分の位置づけは、必要不可欠です。


ここで、厄介なのが
人間の肉体の仕組みでしょう。
この話は、私がそう感じている
だけの事なのですが
「経験値」は「血肉」刻まれ
思考とは全く別の判断をしています。
経験値の判断が身体を動かしている事が
多々あるのです。

コップを手にする時に
いちいち自分の位置を確認しませんよね?
それは、意識していないという事になります。

血肉に刻まれた
経験の記憶に任せておけば
意識する必要がないのです。

自宅にいる・・
会社にいる・・
駅にいる・・
いちいち意識しないでしょう。
酔っぱらって意識が朦朧としても
肉体が今の場所と自宅を記憶しているので
帰宅できる。
翌日、目が覚めてどうやって帰宅したのか?
憶えていないなんて事もあるわけです。




また、私たちは生まれながらに
我欲を満たそうと快楽を求めているのも
そう創られて生まれて来るからでしょうし
その経験を繰り返している為に
快楽を求める思考が
子々孫々と受け継がれて行きます。

その思いは、無意識が支配しており
いちいち、そこを意識しなくても
私たちは、毎日を普通に過ごす事が出来ます。


要するに、無意識に流されて過ごせば
快楽を求め続けてしまうのが
私たち人間という生き物であり
私たちは、無意識という我欲に
常に支配されているわけです。


私が「言動の動機」に注目するように
おススメしているのは
言動の動機が目前の現実を
創り上げているからなのですが
いざやってみると
皆が皆、「無意識」という
「我欲」に支配されているのがよく解るでしょう。
自己顕示欲が強すぎると
物事を見る視野が狭すぎて
全く気付けませんけどね・・w


多くの人が、自己の意識で
肉体を操作しているとそう思っているでしょうが
実際は、自己の意識を肉体も操っているんです。

どちらかと言うと
肉体の方が操る力が強いでしょうね。
血肉に操られながら思考が働いているわけです。



それを仏教では「先祖からの因縁」なんて言い放ち
信者を増やしていいくわけです。
いや~私も騙されましたね~w

自分自身の思考は
血肉に刻まれた経験値を元に
働いているだけだと解ると
「先祖からの因縁」など
気にならなくなり
余計な所にお金も使わなくなります。w




私は多くの祝詞や経典を記憶しており
何度も繰り返し奏上してきたので
意識せずに奏上する事が出来ます。
文字や言葉を思い浮かべる事などしませんし
逆に自分の肉体が奏上する言葉を
自分の意識が聞きながら
その意味を嚙みしめているので
自分の肉体から祝詞を聞かされている感覚になります。

幽体離脱しているわけではありませんが
感覚的にそんな感じになります。

自分の肉体と意識は
別物なんだと、そう思うようになったのも
その経験からなのです。



例えば、(私は経験がないのですが)
初めてスカイダイビングをしようとすると
おそらく足が竦んで
すぐに飛び降りる事ができないと思います。

仮に飛び降りる事ができたならば
自分の肉体と、意識とで相談し
お互いに納得できた時なんだろうと
そう思っています。

そして、スカイダイビングを経験する事により
肉体に、その経験値が刻まれ
「楽しい」と感じる事が出来れば
二回目はスムーズに飛べるでしょうし
「恐怖」を感じていれば
二回目は、意識と肉体の対話は
対立する事になるでしょう。w

私が経験体験を重視するのは
誰しもが快楽を求める肉体に
操られているとそう思っており
その思考を改善するには
煩悩に逆らった体験をし
その経験値を血肉に刻む必要があると
そう思っているからです。



殆どの人が子供の頃、勉強しようと
思っているのにやらなくて
親や先生に叱られる経験を
した事があると思うのですが
「やろうと思っているのに出来ない」
これは、肉体が快楽を求めているからだと
私は、そう思っています。
「快楽を求める」という経験値を
刻んだ「血」が全身を巡っている為
勉強より快楽を優先してしまうのです。

肉体の経験値に勝る意思があれば
思考で抱く意思通りに
行動する事ができるでしょうが
血肉に刻まれた経験値に勝る意思など
簡単に抱けないんですよね~

なので、自分自身の肉体は
常に快楽を求めているという事を
忘れてはいけないと
私は、そう思っています。


快楽を求める事は自然な事ですが
快楽だけを求めて過ごすと
嫌な出来事が増え続けるのが
大自然の法則ですしね。





私は、誰しもが
無意識の中に常に快楽を
求める欲望が渦巻いていると
そう思っています。
自他共に人間を観察すると
実際にその通りですしね。w


で、殆どの人が
快楽を無意識に求めてしまう為
自分の言動に辻褄が合わなくなったり
他人にダブルスタンダード
指摘されたりするわけですが
これを回避する為には
とりあえず、でいいので
自分の立ち位置を認識する事だと
私は、そう思っています。




誰しも無意識に自分の位置付けをした上で
言動を繰り返しているのです。
無意識=快楽を求める意識
と言っても過言ではないので
「快楽を求める」とう立ち位置で
物事を判断しているのです。

なんだかんだと
損得で物事を判断してしまうのも
その為です。


自分の立場を優先して
言動を繰り返すのは
当たり前の事なのですが
問題は、それを自分で意識していない
という所です。

なので、自分がなぜ?
あんな事をしたのか?言ったのか?
こんな事をしたのか?言ったのか?

ついうっかり!
後なって後悔したりする事もあるでしょう。


「自分の位置づけ」
「自分の立ち位置」
これが自分自身の言動の動機なので
それを確認する癖をつけると
良いと思います。

まぁ~概ね
快楽を求めているだけなんですけどね。w

その事実を知るだけでも
他人の言動にムカついたりしなくなるでしょう。




愛知の野外「密」フェスで
大村知事が激怒していましたが
ネット上でも色々言われていますよね。
個人的には、イベント主催者は
ちょっと可哀そうな気がしています。

コロナを恐れていれば
ふざけんな!となり
感染したらした時だ・・
くらいの感覚だと
叩かれまくって気の毒だな~
なんて思うでしょう。
また、経営者側の視点で考える事が出来れば
仕方ないよな・・
なんて、思う人もいるでしょうね。

酒を出すなと言われていますが
都心のキャバクラで家賃200万の店が
10店舗あれば、毎月2000万捨てている事になりますし
お酒を売っている会社なら
いったいどれくらいの赤字なんだろう?
とか、思ってしまいます。

とは言え、人の命の方が大切だ!と
言う人が多いのも
よく解るんですよね~
私のように、借金苦で
自殺した人を何人も知っている人なんて
少ないでしょうしね。

どちらかと言えば
身近に借金苦で死んだ人が
居る人の方が少ないでしょう。

これらは、経験による
価値観の相違なんです。

話し合いで解決する問題でもないでしょう。
根本的な経験値が違うわけですから。
「自分」という立ち位置が異なれば
意見が分かれるのは当たり前で
その意見が分かれた人たちを動かす政治家が
悪者扱いされるのも道理でしょう。





私は、色々な発言を見聞きしながら
世の中の人々の「動機」を観察して
人間と言う生き物の本質を
もっと深く知り
今の日本の社会構造で何が必要なのか?を
妄想したりしているんです。w
経験により価値観が生み出されるのであれば
今、どんな経験が必要なのか?とか?
気になるんですよね~



日本も、コロナのおかげで
親日を口に出来ないK国と
同じ状態になりつつありますよね。

日々、ナゴヤ球場プロ野球
観客を集めているのに
愛知フェス主催者を庇うと
思いっきり批判されそうな空気ですしね。w

K国の日本への対応を見ていると
解ると思いますが
このパターンはK国の常套手段なんです。

騒ぎ立てて威圧し黙らせる。
そして、言う事を聞かせる。
嫌がらせで「もう勘弁してよ~」って思わせて
お金儲けをするんです。
と、在日の方に教えてもらいました。w

実際に日本は何度もK国に謝罪しお金払ってるでしょ?

日本中でそんな活動が
昔からされているんですが
コロナで一気に広がってましたよね。
YAHOOのトップページなんて
殆どが負の感情を煽る記事ですし。


商売とは言え
日本のマスコミの在り方も
もうちょっとなんとかならんかな~?
とは、思いますが
マスコミが人間の本質を
うまく突いているという事なので
その仕組みをもっと詳しく知りたいなぁ~
なんて、思ったりもしています。


中日ドラゴンズのオーナー企業は
中日新聞社なんで、球場でクラスターが出ても
報道しないでしょうが
でも、愛知県知事ならば
プロ野球観戦が日々行われている事くらい
知っているはずなんですよね~

その上で、どうしてあそこまで
激怒できるのか?
その動機は?とか?
どんな立ち位置での激怒なのか?
とか?気になるんですよね~w

表現の不自由展の件もありますし
名古屋市長の叩かれっぷりとか・・・



ちょっと脱線してしまいましたが
要するに、人は、常に「共感」を求めるように
創られているので
周りに流されやすいという事です。
そして無意識に快楽を求めているので
どんどん快楽を満たす方向に流されて行くわけです。


誰しも周りの人に責められたくないですし
逆に他人と同じ価値観だと安心します。

しかし、それが自分の人生において
大きな落とし穴だったりするんで
仮に流されながらでも
自分の立ち位置を知っておくと良いでしょう。
「今、流されている!」という事を
ちゃんと記憶しておくんです。w



周りの人の意見に流されて
その結果、嫌な思いをすると
「だから自分は嫌だったんだ!」
と、周りのせいにして
自分が快楽を優先した選択をした事を
棚に上げて、ムカつくんですよね~w
だって、自分が流されている事を
記憶していないわけですから・・


しかし、周りの意見に流されている自分を
「快楽を満たす為に流されている」と
自覚していれば、嫌な思いをした時に
己の快楽が原因だ・・と気づけるでしょう。

コレを実際にやり続けると解るんですが
「快楽を満たす為に流される」
→→→「嫌な思いをする」
となり
「周りの意見に流されない」
→→→「その場で、嫌な思いをする」
・・と、なります。
どちらにせよ嫌な思いをするんです。w

でも、人間愚かなんで
目の前の「嫌な思い」より
「嫌な思いを誰かのせいにする」を選択します。

つくづく、愚かだと思うんですが
人間そんなモノなんですよね~wwww


冷静になって考えると
どちらがいいですかね?

ちなみに私は
「その場で、嫌な思いをする」を
常々選択しています。
周りに白い目で見られますが
そのウチ慣れます。w

だって、どの道、嫌な思いをするわけですし
誰かのせいになんてしたくないですしね~


こうやって、自分が快楽を
常々選択している事を自覚できるようになると
どう行動すれば良いか?悩んだ時に
「どの道、嫌な結果しか待っていない事ばかり」
という、この世の仕組みに気付けるでしょう~w

ならば、潔く快楽を捨てた方が
早く、前進できる事にも気づけます。
自分の快楽と向き合うよになるので
常々自分が快楽を求める心に
惑わされている事にも気づけます。

昔の人は
「自分が嫌だと思う方を選択しろ!」
なんて、言いますが
こんな仕組みを良く知っていたんでしょうね。



「自分の言動の動機」
これって、自分で気づいていない事が多いんです。
気付いていないというより
肉体側が気づかないようにさせているんでしょうね。
そこにあるのは、自分本位な醜い心だったりしますしね。

なので、「自分の立ち位置」を知っておく必要があると
私は、そう思っています。

自分の心と目前の現実の繋がりが
よく解ると思います。


また、「自分が生きる」理由が解らないので
人は、悩み苦しむような気もしています。

「自分」という起点がないので
人生で迷い続けるわけです。

なので、私は「人生は、心を成長させる為にあり
それが、大自然の法則である」と言い続けているわけです。

「自分の心を成長させる」という
立ち位置で、この世の出来事を見つめて行くと
全ての出来事の辻褄が合ってくるんですよね~

この先の人生、そんな視点で物事を判断して行くと
色々と、楽しく過ごせるのではないでしょうか。